ばそかけ?パイイチ。

一杯のペペロンチーノ。
昔貧乏だった家族が3人で一杯のペペロンチーノを食べていた。
その後努力し金持ちになった家族は一人一杯のペペロンチーノを食べて
これが私たちにとっての最高の幸せです、と言ったとさ。


ペペロンチーノが300円でかけそばみたいだな、
とそんな話を思い浮かべながらサイゼリヤでもぐもぐ食ってた。
でも考えてみたら
かけそばでもペペロンチーノでもこのわたでもキャビアでもツバメの巣でも
なんでもいいんだな。


あ、珍味だと共感できないか。
石とか投げられるか。


このかけそば話、子供のころよく漫画などでパロディになってたので知ってたのだけど
家族で一杯食ったあと一人一杯になるまでの部分って何があったんだろう。
家族で一杯食った。その翌日、一人一杯食った。
みたいな話なのだろうか。
「その翌日」でなくて「それから10年」かもしれないし「それから20年」かもしれないし
「一方そのころオーストラリアでは!?」かもしれないし
「我慢できなくてすぐに」かもしれない。
何事も過程が重要なのだなあ。


そんなことを考えてたらペペロンチも食べ終わり、
ぼんやりしていたらとなりの人が「肉サラダ。」と注文していた。
変な料理。


最近聞き違いが多い。
耳が悪いかもしれない。
肉サラダも実際のメニューにはなかった。
裏メニューかもしれないしバカな人なのかもしれない。
バカな人が変なメニューを頼む。
それはそれで当たり前のことなのかもしれないけれど、
やっぱりそれは聞き違いのような気がする。


その後電話がかかってきて相手の言葉をよく聞き取れなかったのも耳が悪いせいだろう。
聞き取れなくてもなんとなく聞き流して分かった風に会話するのが悪い癖だ。
なんていうの?グルーヴ?を大切にするあまりそんな風なんだ、多分。
俺はベースを弾いてる人の肩をトントンと叩いて振り返りざまに
「ええグルーヴ、出てるやん?」
と言うのが夢だ。


だけど言われるのは夢じゃない。
そんなこと言われたら舌を噛み切ってその場で絶命するかもしれない。


今さらながらの納豆問題だけど
あれのウェブで見かける話がすべて
「俺はそんなもん嘘だもんね、って信じてなかったけど
 普段から納豆食ってる俺はいい迷惑だったよ、品切れで。」
なのはなぜなんだろう。


なんで嘘でもいいから「騙された!」と憤慨しないのだろう。
タイ米が出回ったときに食わなかった人はバカだ。
俺は食うには食ったが、カレーなどでおいしく食べてしまったのが残念でならない。
だからその教訓を生かし、いまさらながら納豆で痩せようと思っている。
そして憤慨するのだ。
騙された!とおいおい泣いて、血が出るまで地面を叩いて悔しがるのだ。
七代末まで呪ってやる!と井戸にピョーイと身を投げ込むのだ。


時流に乗るというのはそういうことではないだろうか。
ウェブの人は頭が悪いうえに変にかっこうをつける。
だから気持ち悪いとか言われるのだ。