風呂だ風呂。菖蒲湯に入れ。

朝起きると(昼だったけれども)疲れていた。
飲み疲れでなく体の疲れだった。


テレビをつけるとゴミの分別についての公共放送的な番組がやっていた。
「ダイレクトメールの燃える燃えないの分別に困っている」
という相談に答えていた。
たしかにダイレクトメールを捨てるときは燃えるのか燃えないのか迷う。
ダイレクトメールの窓の部分がビニールで燃えないゴミなのだろう
とは思うのだが、捨てるときにそこだけ剥がすのは面倒だ。
気になって答えを見たら
「窓の部分はプラスチックですので、剥がして燃えないゴミに。
 他は燃えるゴミですのできちんと分別して捨てましょう。」
との答えだった。


はーん。わかっとるっちゅーねん。
になりながらパンを食べ、うだうだしてから書きものして本読んで
どうにも体が重くて何もする気になれず、
そういえば今日がこどもの日であることを思い出し、
菖蒲湯目当てにまだ日が出ていたが銭湯に行ってみた。
親子連れで混んでいた。
金を払うとよく冷えたヤクルトを貰った。
今日はそういうサービスなのだという。
風呂に入る前にヤクルトを飲む。
甘い。
冷たい。
さあ風呂だ。
しかしこれ順番が逆なのではないだろうか。


みかんでも菖蒲でも風呂に何かが浮かんでいるのがいい。
菖蒲は浮かばずにきれいに生けられていたがそれでもきもちが良い。
熱い風呂にぼうぼうの草と一緒に入っていると
何だか自分がおいしく煮込まれている気になってくるのだ。
おれおいしくなっちゃてるなあ、
とぼんやり考えながら、のぼせるのを待つ。


のぼせると外の露天風呂そばで外気に当てて体を冷ます。
全神経が冷や冷やされて気持ち良い。
ちょうど風呂に入ったときとは逆のことをしているのだが気持ち良いのだ。
おかしな話だと思う。
温めて気持ちよいのだ。
そして冷やして気持ちよいのだ。
なんでもいいのではないだろうか、とさえ思う。
泥でレスリングしたり全身に油塗って相撲したり、全部気持ちよいのではないか。


経験知や体感知というものを説明するには風呂が一番手っ取り早いのではないか。
「熱い水に入ってきもちがよいのだ」
これは想像するのと実際に経験するのとは大きな隔たりがある。
お風呂を知らない人々に「熱い水が気持ちよい」と言ったところで
この人は変態なのだとしか思われないだろう。
「そういうプレイなのだ」とつづけて言えば納得してもらえるだろうが。
入れば分かるのになあ。
そんなことを思いながら体から汗が引くまでぼんやりしている。
それでも地球は回っているといったガリレオ気分で。
真っ裸で。


「それでも地球は回っている」といったのがガガーリンだったらおもしろい。
宇宙から地球を撮影してもまだ信じてもらえてないのだ。