地蔵生活

僕はここ最近お地蔵さんにお祈りしている。
お地蔵さんにお参りしてから娘を託児所に預けている。


そもそもの発端は祖母である。
僕の祖母が電話をかけてきて、毎日娘のことをお地蔵さんにお祈りしていると告げてきた。
大変だなとは思ったものの、ありがとうとしか言えなかった。
考えてみればあまりにも一方的な話だ。


祈られる方は何もできやしない。
祈りはそもそもが暴力的なんだ。
祈られる方は横たわって静かに眼を閉じて数でも数えているしかない。


僕の母は新興宗教に入っていてずっと祈っていたし僕はずっと祈られてきた。
もろ手を挙げて大感謝!といかないのは、その辺りの違和感があったからか。


たとえば
「私の入ってる『ドッジボールと一輪車教団』で祈ってきたから」
とか言われたらどうする?
「やめてくれよ、そんな小学生独特のあそびみたいなので祈るのは!」
そんなこと言ってもむだだ。


あなたの幸せはすでに祈られた。
きっとキコキコ一輪車こぎながら祈られたのだ。


祈られることについての戸惑いや違和感はずっとある。
しかし今回祖母に祈られているのはお地蔵さんだしそれはずっとましだし
ご利益があるのは僕の娘の方だ。
ようやくそういうことになったのだ。


そういうことになったのならこちらもそうしよう。
祈る側にまわってみようという気になったのだ。


ということで駅前の夜には電気がつくお地蔵さんにお参りしている。
大枠で言えば電化製品に分類されそうな現代の地蔵さんで祈っている。


これだけひねくれたこと言いながら祈ることは好きなのだ。
ポロポロと
思いが口からこぼれ落ちる田中小実昌スタイルで祈ることもあれば
お願いします、という言葉の音を確かめるだけのこともある。


なんせ人がいると恥ずかしいから。
僕はさっと地蔵にお祈りヒットして即座に地蔵からアウェイする。


そろそろ二週間だし、やろうと思えばライオンにもできると思う。
ライオンの前に飛び出して、さっとライオンの幸せを祈ってさっと飛び去るのだ。
かっこいい。
そして恥ずかしくないし、食われもしない。


娘の無事を祈ることが大体だが、
二週間続けてみると飽きてきたり早く済ませたかったりと
案外いいかげんになってきて
たまにお地蔵さんの無事を祈ったりもしている。


クビとか折られませんように。とか、
ゾウにふみつぶされませんように。とかお地蔵さんに起こらないように祈るのだ。


娘を託児所に預ける日だけなので、月金でお祈りをしていることになる。
単純に計算しても週5なので週1のご利益5倍。
月1の20倍は見込めるご利益。
利益、利益で儲かってしょうがないかと思いきや、
今週は託児所から「熱が出ました」と二度ほど呼び出された。
まだ儲けたりないのか。


あの駅前のお地蔵さんが、せめてあと5倍ほど大きければなあ。
ご利益もあと5倍稼げるのになあ。


でもそうなると、僕も5倍大きくなければ意味がなかったりするのかなあ。
だったら僕も8m50cmくらいにならないかなあ。


8.5mある時点でものすごいご利益が来てる気もするが、
大きくなって娘の無事を祈った上でもお釣りがくれば祖母も母も祈ってあげられる。


やっぱり暴力的になるけれど祈って「あげられる」のだ。