九条を散策。
好きだった映画館を見に行ったり
商店街や赤線地帯を歩いたり
安治川トンネルという川を横断する地下道を見たりした。


安治川トンネルゆうたらどっちですかいねー、と
その辺のおばちゃんに聞いたのだが
ほらほらそこにあるのがそうよー、と教えてくれて
ありがとうとこちらは言ってお別れするんだけども
おばちゃんは別れ際に
あれもできたんは昭和19年やから…
ポソッと独り言を言う。


ポソッと、と書いたがもっとあからさまな
ポソーッ!と、くらいのポソッとさであって、
聞いたこっちはぬなっ!?である。
なんだと?である。


へー、そんな前からあるんですねー、と言うと
そこからおばちゃんは足を止めてトンネルについて話をする。
色々話が聞けてうれしーなー、と
満足してまたお別れするのだけども
後になって
あのおばちゃん明らかに捕まえてくれと言わんばかりの独り言やったなー
と感心したりする。
なんだかうまく言えないけれどなかなかできないことだと思った。


この一見できそうでできないことをさらっとする、というのは
意外と次元を一つ超越しないとできないというか
スケールが違わないとできないことだと思う。
特に昔の人。
昔の人のスケールは違うなあ、と思い知らされたのが
祖母によるひいじいさんの話で
ひいじいさんは京都のお寺に行くのが好きで
一度お寺のお風呂に勝手に入ってこっぴどくお寺の人に怒られたことがあった、
という話だった。
この勝手に風呂に入る、というのが
できそうでできないというかもう発想のスケールが違うよなあと実感させられた。


安治川のおばちゃんはトンネルについて
涼しくてえーね、と言っていた。
クーラーじゃないんだから。